まじめな琵琶名人!平経正-1【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|平家公達草紙について
平経正は琵琶の名人。経正を含む平家の身内で、春夜の宴がはじまりました。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<95~98番詞書>より
平経正 たいらのつねまさ
清盛の甥。琵琶の名人。
藤原隆房 ふじわらのたかふさ
清盛の娘婿。
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・平徳子に仕える女房。
か・・・完徹?!
これって、今でいう徹夜カラオケ・・・。いやいや、花と月を愛で、詩歌管弦を楽しむ、雅な一夜です。
平安時代には、「庚申待」といって、寝ずに夜通し宴会をするといった宗教儀式もあったくらいですので、 楽しすぎて夜を明かすっていうのも、ぶっとんだ行為ではなかったのかもしれません。 西八条邸は清盛の私邸ですので、宮中とは違い、身内だけのリラックスした雰囲気だったんでしょう。
この宴会が開かれた西八条邸は、広大な清盛の私邸です。場所は、現在の京都鉄道博物館の付近・梅小路公園がある辺り。
洛中における平家の拠点であり、多田行綱が鹿ケ谷の陰謀を密告した場所、祇王や仏御前が清盛の前で舞った場所等、数々の物語の舞台となりました。清盛が福原に退居したのちは、平時子がここを守っていました。
一方平家一族の本拠地は、都の東、六波羅にありました。清盛の祖父・正盛がここに目をつけ御堂を建立し、忠盛が邸を築き、清盛がさらに大きく発展させました。
その範囲は、東西五町(約550メートル)、南北八町(約870メートル)にもわたり、平家一族の家がびっしりと立ち並んでいたといいます。
平家の栄華の舞台となった西八条邸と六波羅邸でしたが、寿永二年、都落ちの際に自ら平家一門の手によって焼き払われ、一瞬のうちに灰塵となってしまいました。
のちに鎌倉幕府が、朝廷の監視のために、六波羅の地に設置したのが六波羅探題です。
ふらりと宴に飛び込み参加した、藤原隆房。 フジワラさんですが、彼は平家の身内です。
彼の家系は、鳥羽院の近臣であった祖父・家成の代から平家と親しく、平家と持ちつ持たれつの関係にありました。
平家の近い人物の一人ですが、平家都落ち後も政界に残り、その子孫は四条家として栄えました。
とはいえ、隆房は平家を見限ったわけではなく、平家への義理を持ち続け、没落後の建礼門院を支援したとも言われています。 右京大夫にとっては、後年憚ることなく往時を語り合える、数少ない相手であったようです。〔331歌・332歌詞書〕
隆房は、平家の絶頂期を間近で見た、貴重な語り部として、たびたび平家関連の作品に登場します。 隆房本人が記した『安元御賀記』。また、鎌倉時代に成立した『平家公達草紙』(作者未詳)でも、語り部の役割で登場します。
この『平家公達草紙』というのがなかなか面白くて、 維盛のプライベートに付き纏う藤原隆房だとか、内裏で女房たちにドッキリをしかける重衡だとか、 愉快なお話が載っています。
これらのエピソードが後世の創作だったとしても、 維盛と隆房は仲良しで、 重衡は内裏のムードメーカー的なキャラクターだという風に認識されていたということは、面白いですね。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<95~98番詞書>より
漫画は次回につづきます。
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
清盛の甥。琵琶の名人。
藤原隆房 ふじわらのたかふさ
清盛の娘婿。
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・平徳子に仕える女房。
栄華の絶頂を彩る、雅な一夜
これって、今でいう徹夜カラオケ・・・。いやいや、花と月を愛で、詩歌管弦を楽しむ、雅な一夜です。
平安時代には、「庚申待」といって、寝ずに夜通し宴会をするといった宗教儀式もあったくらいですので、 楽しすぎて夜を明かすっていうのも、ぶっとんだ行為ではなかったのかもしれません。 西八条邸は清盛の私邸ですので、宮中とは違い、身内だけのリラックスした雰囲気だったんでしょう。
栄華の舞台!西八条邸と六波羅邸
この宴会が開かれた西八条邸は、広大な清盛の私邸です。場所は、現在の京都鉄道博物館の付近・梅小路公園がある辺り。
洛中における平家の拠点であり、多田行綱が鹿ケ谷の陰謀を密告した場所、祇王や仏御前が清盛の前で舞った場所等、数々の物語の舞台となりました。清盛が福原に退居したのちは、平時子がここを守っていました。
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一方平家一族の本拠地は、都の東、六波羅にありました。清盛の祖父・正盛がここに目をつけ御堂を建立し、忠盛が邸を築き、清盛がさらに大きく発展させました。
その範囲は、東西五町(約550メートル)、南北八町(約870メートル)にもわたり、平家一族の家がびっしりと立ち並んでいたといいます。
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平家の栄華の舞台となった西八条邸と六波羅邸でしたが、寿永二年、都落ちの際に自ら平家一門の手によって焼き払われ、一瞬のうちに灰塵となってしまいました。
のちに鎌倉幕府が、朝廷の監視のために、六波羅の地に設置したのが六波羅探題です。
平家を語るキーパーソン!藤原隆房
彼の家系は、鳥羽院の近臣であった祖父・家成の代から平家と親しく、平家と持ちつ持たれつの関係にありました。
父・藤原隆季の妹(経子)が重盛の正室に、さらに隆房自身も清盛の娘を正室にしており、血縁でもガッツリ平家と絡んでいます。
とはいえ、隆房は平家を見限ったわけではなく、平家への義理を持ち続け、没落後の建礼門院を支援したとも言われています。 右京大夫にとっては、後年憚ることなく往時を語り合える、数少ない相手であったようです。〔331歌・332歌詞書〕
隆房は、平家の絶頂期を間近で見た、貴重な語り部として、たびたび平家関連の作品に登場します。 隆房本人が記した『安元御賀記』。また、鎌倉時代に成立した『平家公達草紙』(作者未詳)でも、語り部の役割で登場します。
※参考文献 角田文衛氏『平家後抄』朝日選書 、朝日新聞社 1981年
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この『平家公達草紙』というのがなかなか面白くて、 維盛のプライベートに付き纏う藤原隆房だとか、内裏で女房たちにドッキリをしかける重衡だとか、 愉快なお話が載っています。
これらのエピソードが後世の創作だったとしても、 維盛と隆房は仲良しで、 重衡は内裏のムードメーカー的なキャラクターだという風に認識されていたということは、面白いですね。