平資盛からの、最後の便り!【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|玉葉和歌集
逡巡の末、屋島の資盛へ手紙を書いた右京大夫。資盛から返事が届きます。これが、資盛からの最後の便りとなりました。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<220歌詞書>より
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は退職。
平資盛(たいらのすけもり)
清盛の長男[重盛]の次男。右京大夫の恋人。
都落ちの時に、右京大夫に「文をやることなども、いづくの浦よりもせじ」(どこの浦からも手紙を出したりはしない)と誓った資盛。
けれども、右京大夫からの手紙を見たときには、
「さすがにうれしきよし言ひて」(やっぱり嬉しかった)そうです。
右京大夫にそう伝えてあげる資盛は、優しいですね。
手紙を出してよかったのか悩んでいた右京大夫を救う一言だと思います。
(もう泣きそう)
資盛の歌からは、気丈に振る舞いたいけれど、ともすれば心が折れそうになる、一人の青年の苦悩が伝わってきて辛いですね。
この手紙を読んだ右京大夫は、「見し心地、まして言ふ方なし」(読んだときの気持ちは、言いようもなかった)そうです。
これが、資盛最後の手紙となりました。
なお、このとき資盛の詠んだ歌
は、『玉葉和歌集』にも、「前右近中将資盛」として入集しています。(雑四・2344歌)
この頃の、源氏と平家の動向を見ておきましょう。
平家は、本拠地の讃岐国屋島と、長門国彦島の二箇所を拠点とし、なお一定の勢力を有していました。
源氏の方は、寿永三年(1184)8月、範頼が平家追討のため鎌倉を出発。9月2日に西国に下向しました。
範頼は、翌年1月26日九州に渡り、2月1日には、平家の有力家人である太宰権少弐原田種直を打ち取りました。この時点では頼朝は、九州武士の組織化を進め、平家を包囲することで、平家の降伏を促す構想であったとも考えられています。
一方で、寿永四年1月10日、畿内の軍政指揮官として京にいた義経が、平家追討のため西国へ出陣。
『建礼門院右京大夫集』<220歌詞書>より
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は退職。
平資盛(たいらのすけもり)
清盛の長男[重盛]の次男。右京大夫の恋人。
さすがにうれしきよし言ひて
けれども、右京大夫からの手紙を見たときには、
「さすがにうれしきよし言ひて」(やっぱり嬉しかった)そうです。
右京大夫にそう伝えてあげる資盛は、優しいですね。
手紙を出してよかったのか悩んでいた右京大夫を救う一言だと思います。
(もう泣きそう)
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資盛の歌からは、気丈に振る舞いたいけれど、ともすれば心が折れそうになる、一人の青年の苦悩が伝わってきて辛いですね。
この手紙を読んだ右京大夫は、「見し心地、まして言ふ方なし」(読んだときの気持ちは、言いようもなかった)そうです。
これが、資盛最後の手紙となりました。
なお、このとき資盛の詠んだ歌
は、『玉葉和歌集』にも、「前右近中将資盛」として入集しています。(雑四・2344歌)
屋島の戦い
平家は、本拠地の讃岐国屋島と、長門国彦島の二箇所を拠点とし、なお一定の勢力を有していました。
源氏の方は、寿永三年(1184)8月、範頼が平家追討のため鎌倉を出発。9月2日に西国に下向しました。
範頼は、翌年1月26日九州に渡り、2月1日には、平家の有力家人である太宰権少弐原田種直を打ち取りました。この時点では頼朝は、九州武士の組織化を進め、平家を包囲することで、平家の降伏を促す構想であったとも考えられています。
一方で、寿永四年1月10日、畿内の軍政指揮官として京にいた義経が、平家追討のため西国へ出陣。
摂津国で渡辺党の協力を得た義経は、2月16日夜に四国に向かいました。
『平家物語』には、この時、四国に渡ろうとする義経と梶原景時の間で、「船に逆櫓をつけるかどうか」で論争になったという有名な話があります。
急襲に対応できなかった平家軍は、安徳天皇を伴って、もう一つの拠点である長門国彦島に向かって撤退しました。
勢いづいた義経軍は、熊野水軍や河野水軍を味方につけ、周防国で三浦義澄の軍勢と合流し、3月22日、長門国壇ノ浦まで進軍しました。
それを受けて平家軍も彦島を出発。
そして、ついに、3月24日正午、壇ノ浦の戦いが始まるのです。
『平家物語』には、この時、四国に渡ろうとする義経と梶原景時の間で、「船に逆櫓をつけるかどうか」で論争になったという有名な話があります。
(実際には梶原景時は、上記の範頼に協力しており、このとき義経軍には参加していなかったとみられています。)
※『平家物語』では18日、『玉葉』では19日
急襲に対応できなかった平家軍は、安徳天皇を伴って、もう一つの拠点である長門国彦島に向かって撤退しました。
勢いづいた義経軍は、熊野水軍や河野水軍を味方につけ、周防国で三浦義澄の軍勢と合流し、3月22日、長門国壇ノ浦まで進軍しました。
それを受けて平家軍も彦島を出発。
そして、ついに、3月24日正午、壇ノ浦の戦いが始まるのです。