五節の櫛!平宗盛からのプレゼント。【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|平家物語
またまた平家の大物登場!平宗盛から右京大夫にプレゼント?
『平家物語』では、平家を立て直せず滅亡に導いた凡庸な総帥として描かれ、異母兄・重盛と比べられることもあるのですが、重盛は、清盛より先に亡くなっています。
重盛は、総帥となってからも、後白河院に無理難題を命じられた時には、「福原にいる清盛に聞かないと動けません」という手を使うことができました。
宗盛の場合、条件が違います。
早々に後白河院への恭順姿勢を示した宗盛でしたが、
平家存続の為に政治的に奔走した宗盛でしたが、
戦場での華々しい活躍ではなかった為、『平家物語』では、弟の知盛・重衡がカッコよく描かれる中、宗盛は情けない怯懦キャラになってしまっています。
以降、宗盛にはこの凡庸・怯懦キャラの影がつきまとうことになります。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<59~60番詞書>より
平宗盛 たいらのむねもり
平清盛の三男。(時子の子の中では長男)
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・平徳子に仕える女房。
おい、右京大夫。
と思わずツッコミたくなりますが、二人は別にあやしい仲ではありません。
当時、五節(新嘗祭・大嘗祭に行われた行事)の頃に、親しい人の間で櫛を贈答する、という習慣があったようです。
今でいうバレンタインデー(ホワイトデー?)みたいなものでしょうか。
何やら意味深な贈答をしていますが、この二人に恋愛感情があったわけではなくて、よくある貴族の社交辞令だったようです。 友チョコですね。
だいたい、こういう意味深な和歌をもらったら、女性側は
「そんな調子のいいことを言って、どうせすぐに忘れちゃうんでしょう?」
とか
「どうせほかの人にも、おんなじようなこと言ってるんでしょう?」
みたいなツンデレ対応をするのが定番ですが(重衡のときみたいに・・・)、
ここは右京大夫は、素直な歌を返していますね。
やはり、相手が中宮さまの同母長兄・中納言ですから、失礼のないようにしたんでしょうか。
右京大夫の交友関係の広さにはびっくりしますね。
『建礼門院右京大夫集』<59~60番詞書>より
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平清盛の三男。(時子の子の中では長男)
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・平徳子に仕える女房。
五節の櫛は友チョコ?
と思わずツッコミたくなりますが、二人は別にあやしい仲ではありません。
当時、五節(新嘗祭・大嘗祭に行われた行事)の頃に、親しい人の間で櫛を贈答する、という習慣があったようです。
今でいうバレンタインデー(ホワイトデー?)みたいなものでしょうか。
何やら意味深な贈答をしていますが、この二人に恋愛感情があったわけではなくて、よくある貴族の社交辞令だったようです。 友チョコですね。
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だいたい、こういう意味深な和歌をもらったら、女性側は
「そんな調子のいいことを言って、どうせすぐに忘れちゃうんでしょう?」
とか
「どうせほかの人にも、おんなじようなこと言ってるんでしょう?」
みたいなツンデレ対応をするのが定番ですが(重衡のときみたいに・・・)、
ここは右京大夫は、素直な歌を返していますね。
やはり、相手が中宮さまの同母長兄・中納言ですから、失礼のないようにしたんでしょうか。
右京大夫の交友関係の広さにはびっくりしますね。
治承五年(1181)宗盛は、五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヶ国の惣官に就任。合法的に兵を動員できる実質の国家の軍事トップに立ちます。清盛の没後は、惣官として追討使の派遣を指揮しつつ、後白河院や他の公卿との調整に奔走しました。
『平家物語』では、平家を立て直せず滅亡に導いた凡庸な総帥として描かれ、異母兄・重盛と比べられることもあるのですが、重盛は、清盛より先に亡くなっています。
重盛は、総帥となってからも、後白河院に無理難題を命じられた時には、「福原にいる清盛に聞かないと動けません」という手を使うことができました。
宗盛の場合、条件が違います。
高倉院が崩御し、清盛が他界し、宗盛は既に詰んでる状態の平家の舵取りを一身に背負うことになった訳ですから。
宗盛は、清盛の没後、二日後には早々に次のようなことを後白河院に申し入れています。
宗盛は、清盛の没後、二日後には早々に次のようなことを後白河院に申し入れています。
早々に後白河院への恭順姿勢を示した宗盛でしたが、
一方で、治承5年閏2月6日、院御所議定で源氏に和平の使者を派遣する方針が決定したにもかかわらず、宗盛は武力による追討を主張します。
治承5年8月には、頼朝から後白河院に対して、「自分には謀反の心はなく、昔のように源氏平氏相並んで仕えたい」という、和平の提案が上奏されますが、
宗盛は、下記の清盛の遺言を理由に拒否します。
宗盛は、後白河院への恭順姿勢を示しつつも、平家の軍事的地位を失うわけにはいかない、という難しい立場に立たされたのです。
こうして平家は、追討使による源氏追討路線を継続しますが、
寿永2年、倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで木曽義仲に大敗。
都落ちの際には後白河院に脱出されるという致命的な失策を犯し、賊軍として追われる立場に成り下がってしまうのでした。
寿永2年、倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで木曽義仲に大敗。
都落ちの際には後白河院に脱出されるという致命的な失策を犯し、賊軍として追われる立場に成り下がってしまうのでした。
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平家存続の為に政治的に奔走した宗盛でしたが、
戦場での華々しい活躍ではなかった為、『平家物語』では、弟の知盛・重衡がカッコよく描かれる中、宗盛は情けない怯懦キャラになってしまっています。