後鳥羽天皇に仕える【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】
右京大夫、宮中に再出仕します!
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
第八十二代天皇。高倉院の第四皇子。安徳天皇の異母弟。
後鳥羽天皇は、第82代天皇。高倉上皇の第四皇子です。
再出仕の時期は具体的にはわかりませんが、後鳥羽天皇の在位が1183~1198年なので、その後半だとすると、右京大夫が30代後半~40歳頃の話になります。
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
第八十二代天皇。高倉院の第四皇子。安徳天皇の異母弟。
後鳥羽天皇
寿永二年(1183)、平家が安徳天皇と三種の神器を持って行ってしまったので、神器のないまま、四歳で即位しました。
後鳥羽天皇の即位は、安徳天皇を擁する平家にとっては相当ショックな出来事でした。
平家物語には、
「やすからぬ。三の宮をも四の宮をもとり参らせて、落ちくだるべかりしものを」
と悔しがる描写があります。(巻八「名虎」)
それから約二年間、西国の安徳天皇と京の後鳥羽天皇、二人の天皇が存在していたことになります。
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ところで、後鳥羽天皇(後に上皇)といえば・・・
『新古今和歌集』の編纂事業等に見られる和歌への情熱もさることながら、琵琶の腕前も名人級で、蹴鞠も達人並み、武芸にも秀で、さらには自ら太刀まで作ってしまうという、もう何だか凄すぎるオールラウンダー。
父・高倉院とは、少しイメージが違うのですが、右京大夫によれば、お顔はとても似ていらっしゃったとのこと。
この頃、後鳥羽天皇はまだ十代で、ちょうど右京大夫が宮仕えしていた頃の高倉天皇と同じ年頃だったので、なおさら面影が重なって見えたことでしょう。
後鳥羽天皇即位の経緯については、えこぶんこ2でくわしく解説しています。
(別ウィンドウが開きます)
キャリアウーマン・右京大夫
後鳥羽天皇は19歳で為仁親王に譲位し(土御門天皇)、院政を開始します。
右京大夫はそのまま院にも仕えたようで、後鳥羽上皇が藤原俊成に贈る法服に刺繍をしたという記事があります。(358歌詞書)
これが建仁三年(1203)のことなので、このとき右京大夫は50歳前後。
さらに建暦二年(1212)、父・実宗の喪に服す藤原公経に対して贈った歌があり(333歌)、この時まだ出仕していたならば、60歳前後。
また、『明月記』建永元年(1206)7月12日の記事に、歌人の中の一人として「七条院右京大夫」なる人物が記されていて、これが右京大夫その人ではないかという指摘があります。(新編全集解説)
そうだとすると、右京大夫は、七条院(後鳥羽天皇の母・藤原殖子)にも一時期仕えていたことになります。
うーーーん、すごい。
どれだけ仕事するんだ。
また、『建礼門院右京大夫集』が藤原定家に提出されるのは、『新勅撰和歌集』の編纂作業が行われていた頃なので(貞永元年・1232以降)、
このとき右京大夫は、なんと80歳前後です。
( ゚Д゚)
・・・・・・。
感慨がすごい・・・・・。
もしも、寿永四年の時点で、右京大夫が資盛の後を追っていたとしたら・・・
右京大夫集はこの世に存在しなかったことになります。
もしも、悲しみのあまり、引き籠って世俗との関係を断っていたら・・・
仮に右京大夫集を一人で書いていたとしても、陽の目を見なかったことになります。
凄まじい体験をしたことや、それを緊張感溢れる名文に書き起こした文才もさることながら、右京大夫の本当にすごいところは、実社会で地に足をつけて働ききったところだと思います。
そうした彼女の生き方は、失っても悲しくても、それでも地道に生きていくことの意味を教えてくれています。
恋人・資盛はわずか25歳で海に散ってしまいましたが、彼女が書き記した右京大夫集の中の資盛は、800年以上経った今でも、美しく気高く生き続けているのです。
(※資盛の享年は、平家物語では28歳)