平資盛、最後の願い!【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|平家物語
平家都落ちの計画を知った右京大夫。動揺する右京大夫に、資盛が願ったこととは?
あらすじを漫画でどうぞ。『建礼門院右京大夫集』<205番詞書>より
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
清盛の長男[重盛]の次男。右京大夫の恋人。
右京大夫(うきょうのだいぶ)
中宮・徳子に仕える女房。現在は退職。
資盛の都落ちと、後白河院
けれども、実はこの時点では、資盛にはまだ後白河院という希望がありました。
資盛は、当時、後白河院の近習としても重用されていました。(『愚管抄』には「ソノコロ院ノオボエシテサカリニ候ケレバ」と記されています。)
都落ちの4日前、7月21日には、資盛は追討使として宇治方面に出陣していました。
(その後、河尻方面へ)
各方面の防衛にあたっていた平家一門は、7月23~24日頃にかけて、一旦都に引き揚げます。もちろん、都落ちに備えてです。
ところが、都落ち決行の25日の朝、後白河院は、既に鞍馬へ脱出していました。(その後比叡山へ)
ここに至って院はついに平家を見限ったのです。
後白河院の脱出を知った資盛は、相当ショックだったであろうことが想像できます。
資盛は、大叔父にあたる平頼盛とともに、法住寺殿に駆けつけ、既に脱出済みの後白河院に連絡を取ることを試みます。(平頼盛は、資盛の正妻の父・持明院基家の舅でもあるので、ここで行動をともにしたのは、その縁かもしれません。)
結果、どうなったか。
頼盛は、後白河院の取り計らいで八条院((鳥羽院と美福門院の子・暲子内親王)に身を寄せ、後には源頼朝の元に帰降します。
(平頼盛の母親・藤原宗子(池禅尼)は、かつて平治の乱の折に源頼朝の助命を嘆願した人物です。その為、命の恩人の息子である平頼盛を、頼朝は疎かにはしませんでした)
一方、資盛には、取り次ぐ人もなく、院から返事すらもらえなかったといいます。 やむを得ず資盛は、西国へ向かう平家一行に合流し、その後は滅びゆく平家と命運を共にします。
以上の話は『愚管抄』に見えるのですが、 『平家物語』では、全く別の描かれ方をしています。
資盛が平家一行に遅れた理由は、「兄・維盛が、妻子との別れを惜しんでなかなか出立しないのを、迎えに行ったから」です。 さすがにそれは創作ドラマだろう、と片付けるには、ちょっと引っかかる。
やはり当初、一門とは別行動をとっていたのだということは共通しているからです。
やっぱり、遅れて都落ちに合流したのは事実なんでしょうね。
吉田経房の日記『吉記』には、この頃、「小松家の公達が院の元に帰降する」という噂があったことを書き留めています。
●小松家が、平家主流から疎外されていたこと
●重盛以来、小松家は後白河院との繋がりが深かったこと。
(特に資盛は、後白河院からとりわけ重用されていた)
などから、資盛が、平家一門と袂をわかち、後白河院の庇護下に入る可能性も、無くはなかったのです。
でも、『右京大夫集』の資盛は、そんなことは一切語っていませんね。
彼の言葉には、滅亡への諦念しかありません。
資盛の心中は、実際どうだったのでしょう。
ここから先は想像することしかできませんが、 戦場に出る以上、彼が右京大夫に語ったような覚悟は常に持っていたと思います。
ですが、やはり寵愛を受けていた後白河院に突如見捨てられたことは、やはり相当ショックな出来事だったはずです。
各方面の防衛にあたっていた平家一門は、7月23~24日頃にかけて、一旦都に引き揚げます。もちろん、都落ちに備えてです。
ところが、都落ち決行の25日の朝、後白河院は、既に鞍馬へ脱出していました。(その後比叡山へ)
ここに至って院はついに平家を見限ったのです。
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後白河院の脱出を知った資盛は、相当ショックだったであろうことが想像できます。
資盛は、大叔父にあたる平頼盛とともに、法住寺殿に駆けつけ、既に脱出済みの後白河院に連絡を取ることを試みます。(平頼盛は、資盛の正妻の父・持明院基家の舅でもあるので、ここで行動をともにしたのは、その縁かもしれません。)
結果、どうなったか。
頼盛は、後白河院の取り計らいで八条院((鳥羽院と美福門院の子・暲子内親王)に身を寄せ、後には源頼朝の元に帰降します。
(平頼盛の母親・藤原宗子(池禅尼)は、かつて平治の乱の折に源頼朝の助命を嘆願した人物です。その為、命の恩人の息子である平頼盛を、頼朝は疎かにはしませんでした)
一方、資盛には、取り次ぐ人もなく、院から返事すらもらえなかったといいます。 やむを得ず資盛は、西国へ向かう平家一行に合流し、その後は滅びゆく平家と命運を共にします。
以上の話は『愚管抄』に見えるのですが、 『平家物語』では、全く別の描かれ方をしています。
資盛が平家一行に遅れた理由は、「兄・維盛が、妻子との別れを惜しんでなかなか出立しないのを、迎えに行ったから」です。 さすがにそれは創作ドラマだろう、と片付けるには、ちょっと引っかかる。
やはり当初、一門とは別行動をとっていたのだということは共通しているからです。
資盛は、帰降するつもりだったのか?
●小松家が、平家主流から疎外されていたこと
●重盛以来、小松家は後白河院との繋がりが深かったこと。
(特に資盛は、後白河院からとりわけ重用されていた)
などから、資盛が、平家一門と袂をわかち、後白河院の庇護下に入る可能性も、無くはなかったのです。
でも、『右京大夫集』の資盛は、そんなことは一切語っていませんね。
彼の言葉には、滅亡への諦念しかありません。
資盛の心中は、実際どうだったのでしょう。
ここから先は想像することしかできませんが、 戦場に出る以上、彼が右京大夫に語ったような覚悟は常に持っていたと思います。
ですが、やはり寵愛を受けていた後白河院に突如見捨てられたことは、やはり相当ショックな出来事だったはずです。
そもそも資盛は、直前(7月21日)まで、後白河院の宣旨で源氏を討つため出陣し、さらには都への帰還の連絡も、後白河院からもらっていたのです。
(『吉記』寿永2年7月24日条)
院の真意を伺いたく、法住寺殿に向かったのかもしれません。
なお、平家唯一の裏切り者となってしまった平頼盛について弁護しておくと、彼も一門主流からは疎外されていた身でした。 かつて清盛と跡継ぎ争いをした経緯もあり、また八条院との交流も深いことから、いつ平家を裏切るかわからない、と思われていた節があります。
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なお、平家唯一の裏切り者となってしまった平頼盛について弁護しておくと、彼も一門主流からは疎外されていた身でした。 かつて清盛と跡継ぎ争いをした経緯もあり、また八条院との交流も深いことから、いつ平家を裏切るかわからない、と思われていた節があります。
都落ちの時も、頼盛は山科に出陣していたにも関わらず、宗盛から事前の連絡が来ていなかったといいます。一門と共に西国に行く気にはなれないのも仕方なかったかもしれません。
頼盛は、頼朝の厚遇を受けながらも、平家滅亡の直後(文治元年 1185)五月には出家し、翌年には他界します。