主役登場はさりげなく!平資盛 1【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|藤原基通と平家
お待たせしました。右京大夫の恋人・平資盛初登場のお話。中宮徳子のもとに届いた一枝の桜をめぐって・・・?
まずはあらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<9~11番詞書>より
藤原基通(近衛基通) ふじわらのもとみち(このえもとみち)
摂関家嫡流。平清盛の娘婿。
平資盛 たいらのすけもり
平清盛の長男・重盛の次男。
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・徳子に仕える女房。
右京大夫集に、恋人・平資盛が初登場するお話です。
でも、この時点では、まだ恋仲にはなっていません。(・・・多分)
なぜなら、右京大夫は、恋人としての資盛を書くときは、一度も「資盛」とか「少将」とか、諱(いみな)や官職名では書かないからです。
(他の人はバンバン諱で出てきます)
「とかくもの思はせし人」(私を悩ませたあの人)とか「我が物申す人」(私と言い交わしていたあの人)とかぼかして書くのです。
とはいえ、状況からみて、資盛のことに違いないということは、読み手にはわかる・・・といった具合です。
この理由には色々説がありますが、
「資盛との思い出や、彼の悲しい運命を、消えないように書き記しておきたい。でも、気安くその名を語りたくはない・・・」
そういう、複雑な心境がそうさせたのかもしれません。
右京大夫にとって資盛は、消えてなお、彼女の心の奥底に生き続け、他人に安易に触れて欲しくはない大切な大切な存在だったということでしょう。
この段では、はっきり「資盛」とありますので、単に一官人という扱いでアッサリ書いたのだと思われます。
ところで、この段で右京大夫は「資盛の少将」と書いているのですが、史実ではこの時点で、資盛の官職は少将ではありません。(侍従です)
和歌集の作者名は、その人の最後の肩書きで書くという習慣もありますので、当時の官職と、和歌集の表記が合致している必要はないのですが、(百人一首なんかそうですよね)
資盛の極官は「頭中将」ですし、後世よく呼ばれている呼び名は、「新三位中将」です。
右京大夫が、なぜここで「資盛の少将」と書いたのかはよくわからないのですが、今回の漫画では原文に倣って、少将と書きました。
さて、これらを踏まえて、今後資盛について、官職名ではどう呼べばいいのか迷った末、漫画では、諱の「資盛さま」で行かせていただきます。
史実では、右京大夫が宮仕えを退いた後の治承三年(1179年)、資盛は右近衛権少将になります。(晴れて「少将さま!」)
お馴染みの平家若手メンバーを、花見に誘ったという藤原基通。
1160年生まれで、重衡・維盛たちとは同世代。
若者どうし、仲良く花見に行ったのだろうな~というエピソードですが、彼は今後、平家の運命を大きく左右する重要人物になります。
清盛の娘婿ですが、彼は摂関家嫡流のサラブレッド。 そして、一緒に花見に行ったという女房達が仕える白河殿(平盛子)は、彼の養母に当たります。
人物関係を系図でどうぞ。 (さすが摂関家。大物の名がズラリと。)
平清盛は、天皇家に娘の徳子を嫁がせることで、地位を固めましたが、
同時に、藤原摂関家にも盛子や完子を嫁がせて、権力の中枢に介入しようとしました。
平家の摂関家への介入は、軋轢も生じます。
(名前が似ているので、わかりやすいよう色分けします)
藤原基通が六歳のとき、摂政だった父・基実が他界します。
基通がまだ幼かったため、次の摂政には基実の弟の基房が就くことになりましたが、基実の遺領の多くは、妻の平盛子が伝領することになりました。
摂関家の所領が、実質平清盛の管理下に置かれたことに、当然基房は反感を持ちます。
基房の従者と平資盛の従者が揉めて乱闘になったという「殿下乗合事件」も、基房と平家の軋轢の一端と言えるでしょう。
基房は後白河院に近づき、反平家の姿勢を明らかにしていきます。
治承三年、平盛子が亡くなると、その養子である基通が継ぐはずだった遺領を、後白河院が没収。さらに後白河院は、基通を超えて、基房の子師家を権中納言にするという人事を行います。
これに怒った清盛は、後白河院を幽閉し、基房と師家を解任しました。(治承三年のクーデター)
この後、基通は清盛によって関白に据えられ、安徳天皇即位後は摂政になります。
がっつり平家に担ぎ上げられ、関白、摂政にまでなった藤原基通でしたが、彼は平家都落ちの土壇場で、平家を見捨てることになります。 (詳細は次回ツッコミます!)
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まずはあらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<9~11番詞書>より
漫画は次回につづきます。
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
摂関家嫡流。平清盛の娘婿。
平資盛 たいらのすけもり
平清盛の長男・重盛の次男。
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・徳子に仕える女房。
恋人の名は書かない!?複雑な乙女心
でも、この時点では、まだ恋仲にはなっていません。(・・・多分)
なぜなら、右京大夫は、恋人としての資盛を書くときは、一度も「資盛」とか「少将」とか、諱(いみな)や官職名では書かないからです。
(他の人はバンバン諱で出てきます)
「とかくもの思はせし人」(私を悩ませたあの人)とか「我が物申す人」(私と言い交わしていたあの人)とかぼかして書くのです。
とはいえ、状況からみて、資盛のことに違いないということは、読み手にはわかる・・・といった具合です。
この理由には色々説がありますが、
「資盛との思い出や、彼の悲しい運命を、消えないように書き記しておきたい。でも、気安くその名を語りたくはない・・・」
そういう、複雑な心境がそうさせたのかもしれません。
右京大夫にとって資盛は、消えてなお、彼女の心の奥底に生き続け、他人に安易に触れて欲しくはない大切な大切な存在だったということでしょう。
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ところで、この段で右京大夫は「資盛の少将」と書いているのですが、史実ではこの時点で、資盛の官職は少将ではありません。(侍従です)
和歌集の作者名は、その人の最後の肩書きで書くという習慣もありますので、当時の官職と、和歌集の表記が合致している必要はないのですが、(百人一首なんかそうですよね)
資盛の極官は「頭中将」ですし、後世よく呼ばれている呼び名は、「新三位中将」です。
右京大夫が、なぜここで「資盛の少将」と書いたのかはよくわからないのですが、今回の漫画では原文に倣って、少将と書きました。
さて、これらを踏まえて、今後資盛について、官職名ではどう呼べばいいのか迷った末、漫画では、諱の「資盛さま」で行かせていただきます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
史実では、右京大夫が宮仕えを退いた後の治承三年(1179年)、資盛は右近衛権少将になります。(晴れて「少将さま!」)
平家の運命の鍵を握る男!?摂関家嫡流・藤原基通
1160年生まれで、重衡・維盛たちとは同世代。
若者どうし、仲良く花見に行ったのだろうな~というエピソードですが、彼は今後、平家の運命を大きく左右する重要人物になります。
清盛の娘婿ですが、彼は摂関家嫡流のサラブレッド。 そして、一緒に花見に行ったという女房達が仕える白河殿(平盛子)は、彼の養母に当たります。
人物関係を系図でどうぞ。 (さすが摂関家。大物の名がズラリと。)
平清盛は、天皇家に娘の徳子を嫁がせることで、地位を固めましたが、
同時に、藤原摂関家にも盛子や完子を嫁がせて、権力の中枢に介入しようとしました。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
平家の摂関家への介入は、軋轢も生じます。
(名前が似ているので、わかりやすいよう色分けします)
藤原基通が六歳のとき、摂政だった父・基実が他界します。
基通がまだ幼かったため、次の摂政には基実の弟の基房が就くことになりましたが、基実の遺領の多くは、妻の平盛子が伝領することになりました。
摂関家の所領が、実質平清盛の管理下に置かれたことに、当然基房は反感を持ちます。
基房の従者と平資盛の従者が揉めて乱闘になったという「殿下乗合事件」も、基房と平家の軋轢の一端と言えるでしょう。
基房は後白河院に近づき、反平家の姿勢を明らかにしていきます。
治承三年、平盛子が亡くなると、その養子である基通が継ぐはずだった遺領を、後白河院が没収。さらに後白河院は、基通を超えて、基房の子師家を権中納言にするという人事を行います。
これに怒った清盛は、後白河院を幽閉し、基房と師家を解任しました。(治承三年のクーデター)
この後、基通は清盛によって関白に据えられ、安徳天皇即位後は摂政になります。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
がっつり平家に担ぎ上げられ、関白、摂政にまでなった藤原基通でしたが、彼は平家都落ちの土壇場で、平家を見捨てることになります。 (詳細は次回ツッコミます!)
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※参考文献 /久保田淳氏『建礼門院右京大夫集・とはずがたり』新編日本古典文学全集、小学館 / 糸賀きみ江氏『建礼門院右京大夫集全注釈』講談社学術文庫 /梶原正昭氏・山下宏明氏『平家物語』新日本古典文学大系(岩波書店)

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※参考文献 /久保田淳氏『建礼門院右京大夫集・とはずがたり』新編日本古典文学全集、小学館 / 糸賀きみ江氏『建礼門院右京大夫集全注釈』講談社学術文庫 /梶原正昭氏・山下宏明氏『平家物語』新日本古典文学大系(岩波書店)