大宰府を追われた平家と、平清経の入水【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|平家物語
都を落ちた平家は、福原の旧都も棄て、九州へ。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<206番詞書>より
尊円(そんえん)
右京大夫の異父兄。父は藤原俊成。
現在、右京大夫が身を寄せている。
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は退職。平資盛の恋人。
寿永二年(1183)7月、都を落ちた平家のその後の動向のお話です。
大宰府は、平家の日宋貿易の拠点。太宰大監(大宰府の最高位)の原田種直は、清盛の代から平家と主従関係にあり、平家の九州支配を担ってきた人物でした。
平家は大宰府を拠点として勢力を回復させるつもりでした。
ところが、豊後国の国司・藤原頼輔が、後白河院の院宣に従い平家を追討することを決めてしまいます。このとき、平家追討を命じられたのは豊後国の有力武士、緒方惟義でした。
緒方惟義は、小松家の御家人だったので、資盛が説得に向かいますが受け入れられず、結局平家は大宰府からも撤退せざるを得ませんでした。
大宰府を落ちた平家は、豊前国柳ヶ浦に拠点を置こうとしますが、ここも追い出され、讃岐屋島へ移りました。
『平家物語』では、緒方惟義を説得する役目に資盛が抜擢された理由として、惟義が重盛の家人であったことをあげています。
ですが、都落ちあたりの資盛の動向を踏まえると、資盛はいまだ後白河院の元への帰降を諦めておらず、院の宣旨を承った惟義と(和平の)折衝に臨んでいたのではないか、という説もあります。
柳ヶ浦を追われたとき、早くも前途を悲観し、自ら入水した公達がいます。
資盛のすぐ下の弟、平清経(たいらのきよつね)です。
『平家物語』によれば、清経は、
と言って、
『平家物語』は清経を「何事も思ひいれたる人なれば」(なんでも思いつめる人だったので)と評していますが、
後の一ノ谷、壇ノ浦における平家の公達の悲劇を思うと、清経の見通しは間違っていなかったといえますね。
また、前述のように、西海を漂う平家一門が一枚岩だったわけではなく、清経らの小松家と宗盛たちの平家主流の間には温度差があったことが伺えます。
このとき、清経はまだ21歳でした。
清経の哀れな最期は、やはり人々の同情を誘ったのでしょう。
「清経」は能の演目にもなっています。
小松家が立場を失っていく中で、弟の入水は、資盛には相当なショックなできごとだったと思われます。
後に、兄の維盛までもが熊野で入水してしまったとき、
資盛は右京大夫への手紙で、
と悲痛な心情を詠んでいます。
・・・・・え?
「手紙は出さない」んじゃなかったのかって?
これは、どうしても我慢できなくなった右京大夫の方から手紙を送った、その返事です。
これが資盛からの最期の便りとなりました。
(この話も後日漫画にしますので、お楽しみに)
次回、208番詞書は、有名な「風のおびただしく吹く所に」です。
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あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<206番詞書>より
登場人物
右京大夫の異父兄。父は藤原俊成。
現在、右京大夫が身を寄せている。
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は退職。平資盛の恋人。
福原→大宰府→そして屋島へ
大宰府は、平家の日宋貿易の拠点。太宰大監(大宰府の最高位)の原田種直は、清盛の代から平家と主従関係にあり、平家の九州支配を担ってきた人物でした。
平家は大宰府を拠点として勢力を回復させるつもりでした。
ところが、豊後国の国司・藤原頼輔が、後白河院の院宣に従い平家を追討することを決めてしまいます。このとき、平家追討を命じられたのは豊後国の有力武士、緒方惟義でした。
緒方惟義は、小松家の御家人だったので、資盛が説得に向かいますが受け入れられず、結局平家は大宰府からも撤退せざるを得ませんでした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ですが、都落ちあたりの資盛の動向を踏まえると、資盛はいまだ後白河院の元への帰降を諦めておらず、院の宣旨を承った惟義と(和平の)折衝に臨んでいたのではないか、という説もあります。
結局この会談は決裂し、平家は九州から去らねばならなくなるのですが、もしも資盛がいまだ帰降を望んでいたのだとすれば、主戦派である平家主流と、小松家の間には軋轢があったのではないかとも想像できるのです。
こうした中で、弟・清経の入水という悲劇が起こります。
平清経の入水
資盛のすぐ下の弟、平清経(たいらのきよつね)です。
『平家物語』によれば、清経は、
と言って、
月の夜に柳ヶ浦の海上で、船から身を投げたといいます。
『平家物語』は清経を「何事も思ひいれたる人なれば」(なんでも思いつめる人だったので)と評していますが、
後の一ノ谷、壇ノ浦における平家の公達の悲劇を思うと、清経の見通しは間違っていなかったといえますね。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
兄・資盛が緒方惟義との折衝に失敗した時点で、清経にはもう、平家一門とともに戦いつづけるつもりがなかった(かといって他に選択肢がない)という状況で、入水を選ばざるを得なかったのかもしれません。
また、大宰府を落ちる際に、兄・資盛の腹心として小松家の軍事を支えてきた平貞能が、平家一行から離脱し、後に出家しています。(『玉葉』)
兄・維盛の腹心の家人である藤原忠清も、都落ちの時点で離脱しており、この時点で小松家は、彼らを支えてきた有力郎等にすら見捨てられていたことになります。
西海の平家における小松家の立場は、とても厳しいものだったことが想像できますね。
このとき、清経はまだ21歳でした。
清経の哀れな最期は、やはり人々の同情を誘ったのでしょう。
「清経」は能の演目にもなっています。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
小松家が立場を失っていく中で、弟の入水は、資盛には相当なショックなできごとだったと思われます。
後に、兄の維盛までもが熊野で入水してしまったとき、
資盛は右京大夫への手紙で、
・・・・・え?
「手紙は出さない」んじゃなかったのかって?
これは、どうしても我慢できなくなった右京大夫の方から手紙を送った、その返事です。
これが資盛からの最期の便りとなりました。
(この話も後日漫画にしますので、お楽しみに)
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平家追討の院宣を受けた源氏の軍が西へ向います。次回、208番詞書は、有名な「風のおびただしく吹く所に」です。
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