壇ノ浦の戦い!|平資盛は入水したのか?生存説も?【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<223歌詞書>より
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は退職。
平資盛(たいらのすけもり)
清盛の長男[重盛]の次男。右京大夫の恋人。
壇ノ浦の戦い
戦力は、
『平家物語』によれば、義経軍3000余艘、平家軍1000余艘。
『吾妻鏡』によれば、義経軍840余艘、平家軍500余艘。
実際には、『吾妻鏡』の記述よりもっと少なかったのではないかとも考えられています。
初めは平家方が押していましたが、四国の水軍を率いる阿波重能が寝返ったのをはじめ、四国・九州の在地武士が平家を次々と裏切り、鎌倉方に味方したことで、戦局は決定的になりました。
午後四時には、平家の敗北が決定。
覚一本『平家物語』では、教盛、知盛、教経、経盛は入水。
資盛は、弟の有盛と従兄弟の行盛とともに手を取り合って入水したとされています。
長門本では、もっと哀しい感じ。
宗盛・清宗親子、時忠は生け捕られ、
建礼門院徳子と高倉天皇第二皇子守貞親王は保護されましたが、安徳天皇は、時子に抱えられて入水。
朝廷が取り戻そうとしていた三種の神器のうち、神鏡と神璽は回収されましたが、宝剣は海底から見つかることはありませんでした。
かかる夢見ぬ 人やいひけむ
資盛の生年には諸説あるのですが、
応保元年(1161)だとすれば、このとき彼はまだ数え年で25歳。※職事補任
保元三年(1158)だとしても、まだ28歳です。※平家物語
右京大夫集には、平和な日常の中で冗談を言っては笑い合う、等身大の平家の人々の姿が描かれてきました。
軍記物である『平家物語』とは異なり、寿永二年以降も合戦のことには直接触れず、ただ、大切な人達が次々と失われていく絶望感だけが綴られていきます。
合戦とは決して美化されるものではない。ただただ悲惨なものである、ということを、彼女は伝えているように思えます。
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ところで、『右京大夫集』は、まだここでは終わりません。
悲しみに打ちのめされても、彼女は自暴自棄にはなりませんでした。
やがて、少しずつ正気を取り戻した彼女は、自分なりの方法で資盛の供養につとめます。また、大原の建礼門院(徳子)を尋ねることなどもしています。
彼女は世を棄てることを選ばず、やがて、後鳥羽天皇施政下の宮中に再出仕します。
資盛への想いを抱えながら、次の時代を生き抜くのです。
資盛は壇ノ浦で入水したのか?
『玉葉』寿永3年2月19日条には、資盛と家人の平貞能が、豊後の住人に生け捕られた(投降した)という風聞が記されています。
『平家物語』とは全然話が違ってきますが、
都落ちやその後の資盛の動向(※)を踏まえると、九州の時点で投降したというのも割とありえる話なんだそうです。
※資盛は、都落ちの時点で、後白河院へ帰降する意思があった(『吉記』『愚管抄』)
※大宰府で、資盛が緒方惟栄との折衝役を務めているのは、和平交渉に臨んでいたという説がある。
※資盛は、後白河院に帰洛を願う手紙を出している。(『玉葉』)
※資盛の腹心の家人・平貞能は、九州の時点で平家から離脱している。(『玉葉』)
※清経が入水、維盛・忠房が屋島から離脱しているように、小松家は既に平家主流とは決別していた可能性がある
うーん…。
もしも、豊後で投降したという風聞が事実だったとしたら、資盛は三草山の戦いにも屋島にも、もちろん壇ノ浦にもいなかったことになりますね。
(じゃあ『右京大夫集』にあったアレコレはどうなるんだろう…。)
今となっては、どれが真実かを確かめることはできませんが、
平家の公達の動向には、当時から誤聞を含め様々な情報が錯綜していたことから、色々と検証する余地があるのですね。
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ところで、延慶本『平家物語』・四部合戦状本『平家物語』では、資盛の最期が描かれるものの、兄弟と一緒に入水したのではなく、敵に囲まれてからの自害となっています。
延慶本の方が『平家物語』の古態と言われていますので、有盛・行盛と手を取り合って海に沈んだという最期は、物語として美しく描き直されたものかもしれないですね。
資盛が戦死していたのだとしたら、取り囲まれてからの自害はあまりにも悲愴なので、せめて最期は覚一本のように、残された兄弟(従兄弟)と手を取り合っていて欲しいな…と思います。