大原へ。建礼門院を訪ねて 後編【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】大原御幸について
前回の続きです。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<240歌詞書>より
建礼門院[平徳子](けんれいもんいん[たいらのとくし・のりこ])
平清盛の娘。高倉天皇の中宮。安徳天皇の生母。
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。
右京大夫集には、度々、出家もしないで俗世に身を置いている自分を嘆く描写が見られます。
「史実か否か問題」は別にして、平家物語という文学作品において、この「大原御幸」の章段は、壮大なエピローグとしての役割を果たしています。
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建礼門院に会うために、大原の寂光院を訪れた右京大夫。華やかだった中宮時代との境遇の落差に、驚きと悲しみを覚える右京大夫でしたが…。
『建礼門院右京大夫集』<240歌詞書>より
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平清盛の娘。高倉天皇の中宮。安徳天皇の生母。
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。
やがて住むべき しるべとをなれ
〔242番〕
山深く とどめおきつる わが心 やがて住むべき しるべとをなれ
●現代語訳●
山深くに残しておいた私の心よ わたしがそのまま出家してここに住む手引きとなっておくれ
山深く とどめおきつる わが心 やがて住むべき しるべとをなれ
●現代語訳●
山深くに残しておいた私の心よ わたしがそのまま出家してここに住む手引きとなっておくれ
242歌で詠まれている、出家して建礼門院に仕えたいと思う右京大夫の願いは、実現することはありませんでした。
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『平家物語』では、寂光院で建礼門院の側に仕えていたのは、大納言佐と阿波内侍とされています。
大納言佐とは、藤原輔子のこと。安徳天皇の乳母にして、重衡の妻。建礼門院とは、壇ノ浦まで命運を共にした間柄です。
阿波内侍は、信西(藤原通憲)の娘(孫とも)。建礼門院が寂光院に住めるよう手配をした人物とも言われています。
平家の血縁でもなければ、平家滅亡の七年前には既に宮中を退下していた右京大夫の立場では、今の建礼門院に仕えることは、叶わなかったことでしょう。
隠棲といっても、生活を支援してくれる存在がいるわけですしね。
平家物語のエピローグ「大原御幸」
大原の建礼門院を訪れた人物として、もう一人有名なのが、
そう、後白河法皇です。
『平家物語』「灌頂巻」では、文治二年(1186)四月、後白河法皇がお忍びで、公卿・殿上人を数人を連れて、寂光院を訪れた話が語られています。
有名な「大原御幸」です。
さて、この「大原御幸」が史実であったかは、見解が分かれるところのようです。
この話は、『閑居友』(1222年作)という仏教説話集に見えるものの、『玉葉』などの同時代の貴族に日記に記されていないことから、史実性を疑う声もあります。
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「史実か否か問題」は別にして、平家物語という文学作品において、この「大原御幸」の章段は、壮大なエピローグとしての役割を果たしています。
[役割 1]
建礼門院は、平家の盛衰と共にあった自身の半生について、生きながら、六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を体験したと語ります。「このような身の上になったことは、一時の嘆きであるが、こうして朝夕仏事供養に勤めることは、後生菩提の為にはよかった」とも。平家物語の唱導文学としての色が濃く表れた段となっています。
[役割 2]
また建礼門院は、六道になぞらえて、自身が国母となって平家が栄えた過去、都落ち後の過酷な暮らし、一の谷~壇ノ浦に至る悲劇を語ります。必然的に読者は今までの物語を反芻することになり、総集編のような役割にもなっています。
[役割 3]
さらには、平家追討の院宣を下した後白河法皇と、平家の生き残りである建礼門院との面会は、決裂したままの両者を、物語の最後でつないでいます。
史実か否かはさておき、『平家物語』としては、後白河法皇が建礼門院を訪れるエピソードは、色んな意味で必要だったのですね。
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ところで、『平家物語』(覚一本)の最後「女院死去」の段は、「寂光院の鐘の声…」と語りだします。
「祇園精舎の鐘の声…」で始まった『平家物語』が、「寂光院の鐘の声…」で終わる。
平家物語において、諸行無常・盛者必衰を体現した存在として、建礼門院の担った役割はとても大きいのです。
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