本気で褒めたのに!高倉天皇のやさしさ【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】|平家物語
月の美しい夜、素晴らしい笛の音が聞こえてきました。右京大夫は思わず褒めちぎるのですが・・・。
承安元年(1171)徳子が入内したとき、高倉天皇は十二歳、徳子は十八歳でした。
高倉天皇に清盛の娘・徳子を入内させることには、周囲の反対もありましたが、建春門院滋子の取り成しにより成立したと言われています。
六歳差の政略結婚でしたが、右京大夫集を読む限り、高倉天皇と徳子の仲は良好だったように思われます。ただ、平家一門の期待を一身に背負う立場で宮中に放り込まれた徳子には、壮絶なプレッシャーがあったことでしょう。
治承二年(1178)、徳子に待望の皇子、言仁親王(後の安徳天皇)が生まれます。治承四年(1180)高倉天皇は言仁親王に譲位し、ついに清盛は天皇の外祖父になりました。
実はこのとき後白河院は、清盛によって既に幽閉されています。(治承三年のクーデター)
幼児の安徳天皇に親政は行えませんから、高倉上皇が平家と協調する形で院政を敷きました。ところが、同年、安徳天皇即位に不満を抱いた以仁王の反乱が勃発。相次ぐ政情不安の中、高倉上皇は二十一歳の若さで崩御します。 若すぎる高倉上皇の崩御は、平家政権にとって、大きな痛手でした。
幼児の安徳天皇では政務が行えないので、やむなく、クーデター以来幽閉状態だった後白河院を解放せざるをえませんでした。 この時点で後白河院は、清盛に怒り心頭だったでしょうから、今更、平家とうまく連携できるわけがありません。
この頃なんと平家側では、徳子を後白河院に嫁がせるという案まで浮上していたようです。徳子に第二の建春門院となることを期待したというところです。
・・・が、夫の父親と再婚しろ、とはなんと鬼畜な要求だろうか。
さすがに徳子も頑なに拒否したようです。 (そりゃそうだろう)
清盛もそれ以上の無理強いはしませんでした。
治承五年(1181)、四面楚歌の中、清盛も他界してしまいます。
各地に相次ぐ反乱に対し、平家は官軍として反乱軍を追討していたのですが、寿永二年(1183)平家の都落ちに至って、後白河院は平家を見限り、一転、源氏側を官軍として平家を追討する方針に切り替えます。
賊軍となった平家は、滅亡への道を転がり落ちるしかありませんでした。
高倉上皇の崩御は、平家政権の屋台骨が崩壊した瞬間でもあったのです。
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※参考文献 /『建礼門院右京大夫集・とはずがたり』新編日本古典文学全集(小学館)久保田淳氏 /『建礼門院右京大夫集全注釈』講談社学術文庫 糸賀きみ江氏 /『平家物語』新日本古典文学大系(岩波書店)梶原正昭氏・山下宏明氏
まずはあらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<12~13番詞書>より
高倉天皇 たかくらてんのう
第80代天皇。父は後白河法皇。母は建春門院(滋子)。
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・徳子に仕える女房。
今回は、高倉天皇の笛にまつわるお話です。
右京大夫の祖父(大神基政)は笛の名手であり、母(夕霧)は箏の名手、右京大夫自身も箏を得意としています。そんな右京大夫ですから、音楽の巧拙を聴き分ける耳を持っていたはずです。
おべんちゃらで褒めた訳ではないのに、高倉天皇に「そら言」と言われ、傷ついちゃったのですね。それにしても、その後の高倉天皇の対応が素晴らしい。
右京大夫の立場では高倉天皇と直接言葉を交わすことはできませんので、このやりとりは伝言ゲーム方式で行われたのですが、高倉天皇の大らかな気性が伝わってくるエピソードですね。
女房に過ぎない右京大夫にまで心を配れる、優しい方だったんでしょうね。
高倉天皇は、第80代天皇。父は後白河院。母は前回登場した建春門院滋子です。
六条天皇(五歳)の譲位を受けて、八歳で即位しました。
漫画は、原文を基にえこぶんこが脚色しています。
登場人物
第80代天皇。父は後白河法皇。母は建春門院(滋子)。
右京大夫 うきょうのだいぶ
中宮・徳子に仕える女房。
高倉天皇・・・優しい!!
右京大夫の祖父(大神基政)は笛の名手であり、母(夕霧)は箏の名手、右京大夫自身も箏を得意としています。そんな右京大夫ですから、音楽の巧拙を聴き分ける耳を持っていたはずです。
おべんちゃらで褒めた訳ではないのに、高倉天皇に「そら言」と言われ、傷ついちゃったのですね。それにしても、その後の高倉天皇の対応が素晴らしい。
右京大夫の立場では高倉天皇と直接言葉を交わすことはできませんので、このやりとりは伝言ゲーム方式で行われたのですが、高倉天皇の大らかな気性が伝わってくるエピソードですね。
女房に過ぎない右京大夫にまで心を配れる、優しい方だったんでしょうね。
平家政権の屋台骨・高倉上皇の若すぎた崩御
六条天皇(五歳)の譲位を受けて、八歳で即位しました。
高倉天皇に清盛の娘・徳子を入内させることには、周囲の反対もありましたが、建春門院滋子の取り成しにより成立したと言われています。
六歳差の政略結婚でしたが、右京大夫集を読む限り、高倉天皇と徳子の仲は良好だったように思われます。ただ、平家一門の期待を一身に背負う立場で宮中に放り込まれた徳子には、壮絶なプレッシャーがあったことでしょう。
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実はこのとき後白河院は、清盛によって既に幽閉されています。(治承三年のクーデター)
幼児の安徳天皇に親政は行えませんから、高倉上皇が平家と協調する形で院政を敷きました。ところが、同年、安徳天皇即位に不満を抱いた以仁王の反乱が勃発。相次ぐ政情不安の中、高倉上皇は二十一歳の若さで崩御します。 若すぎる高倉上皇の崩御は、平家政権にとって、大きな痛手でした。
幼児の安徳天皇では政務が行えないので、やむなく、クーデター以来幽閉状態だった後白河院を解放せざるをえませんでした。 この時点で後白河院は、清盛に怒り心頭だったでしょうから、今更、平家とうまく連携できるわけがありません。
・・・が、夫の父親と再婚しろ、とはなんと鬼畜な要求だろうか。
さすがに徳子も頑なに拒否したようです。 (そりゃそうだろう)
清盛もそれ以上の無理強いはしませんでした。
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各地に相次ぐ反乱に対し、平家は官軍として反乱軍を追討していたのですが、寿永二年(1183)平家の都落ちに至って、後白河院は平家を見限り、一転、源氏側を官軍として平家を追討する方針に切り替えます。
都落ちの詳細はこちらの記事を参照ください。
賊軍となった平家は、滅亡への道を転がり落ちるしかありませんでした。
高倉上皇の崩御は、平家政権の屋台骨が崩壊した瞬間でもあったのです。
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※参考文献 /『建礼門院右京大夫集・とはずがたり』新編日本古典文学全集(小学館)久保田淳氏 /『建礼門院右京大夫集全注釈』講談社学術文庫 糸賀きみ江氏 /『平家物語』新日本古典文学大系(岩波書店)梶原正昭氏・山下宏明氏