藤原俊成九十の賀に【建礼門院右京大夫集あらすじマンガ】
和歌の大家・藤原俊成の九十歳の賀宴に、ある役目を命じられた右京大夫でしたが・・・。
右京大夫(うきょうのだいぶ)
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は後鳥羽院に仕えている。
※建礼門院右京大夫の「右京大夫」という召名は、義父・藤原俊成に由来するという説と、曾祖父・藤原定実に由来するという説があります。
あらすじを漫画でどうぞ。
『建礼門院右京大夫集』<357歌詞書>より
『建礼門院右京大夫集』<357歌詞書>より
登場人物
平徳子(建礼門院)に仕えていた女房。現在は後鳥羽院に仕えている。
藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)
『千載集』選者。『古来風体抄』著者。藤原定家の父。右京大夫の義父にあたる。
『千載集』選者。『古来風体抄』著者。藤原定家の父。右京大夫の義父にあたる。
だから言わんこっちゃない?
和歌の大家・藤原俊成の九十歳のお祝いに、院から下賜される袈裟に和歌を縫う役目を任された右京大夫。
そこで、ひと悶着がありました。
右京大夫が縫うように頼まれた和歌は次の通り。
ながらへて けさぞうれしき 老いの波 八千代をかけて 君に仕へむ
右京大夫は、「いま少しよかりぬべく」(もうちょっとマシな歌あったでしょうに)と心の中で毒づきますが、その言葉は胸にしまってそのまま刺繍を完成させます。
ところが、ギリギリになって和歌の修正の要請が!!
「けさぞ」→「けさや」に
「仕へむ」→「仕へよ」に縫い直してくれと。
つまりこうなりますね。
ながらへて けさやうれしき 老いの波 八千代をかけて 君に仕へよ
何が変わったかわかりますか・・・?
そう。
後鳥羽院から藤原俊成への贈り物に書くというのに、
前者では「これからも長生きして院にお仕えします。」という俊成の立場で詠まれてしまっています。
ここは、後者の「これからも長生きして私(院)に仕えてくれ」という後鳥羽院の立場で詠む方がふさわしい。
右京大夫はそれに気づいていたにも関わらず、黙っていたばっかりに、結局縫い直すというハメになっちゃいました。
「うるさいお局オバサン」みたいに思われたくなかったのかもしれませんね。
なんだかこういうことって、現代の会社でもあるような気がします・・・。
藤原俊成と右京大夫
今回の話は後鳥羽院から任された公の仕事でしたが、右京大夫は個人的にも俊成とは交流がありました。
俊成は、右京大夫への返歌に、
「昔のことも、物のゆゑも、知ると知らむとは、まことに同じからずこそ」(私の昔のことも、物の道理も知っている方とそうでない方とでは、本当に違いますね)という親しみを込めた一言を添えています。
※建礼門院右京大夫の「右京大夫」という召名は、義父・藤原俊成に由来するという説と、曾祖父・藤原定実に由来するという説があります。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
藤原俊成は、七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の選者でもあります。
俊成に『千載和歌集』を編纂するように命じたのは後白河院ですが、
寿永二年(1183)2月に、この院宣を俊成に伝えた人物こそ、当時の蔵人頭・平資盛でした。
千載和歌集が完成するのは、文治四年(1188)。この間に平家は滅亡してしまっています。
また、平資盛は自邸での歌会に俊成を判者として招くなど、生前、和歌による交流があったことが知られています。
また、平資盛は自邸での歌会に俊成を判者として招くなど、生前、和歌による交流があったことが知られています。
俊成が資盛と右京大夫の仲を知っていたとしたら、深く思うところがあったことでしょうね・・・。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次回、右京大夫集、最終回!