『平家物語』作者の思惑⁈ 【登場人物ランキング!】得した人・損した人はだれ
今回はコラムです。
さて今回は、『平家物語』が創ったキャラ造形 のせいで、得した人(損した人)は誰なのか。
ランキング形式で考察してみたいと思います。
『平家物語』は、あまりにもよく親しまれた文学作品なので、我々が抱く平家の人々のイメージは、かなり平家物語のキャラ描写の影響を受けていると言えます。
一方、『平家物語』は、キャラに一貫性を持たせるために、史実とは異なる改編を加えていることもよく知られています。 (ここでいう平家物語とは、覚一本を指します。諸本については後述。)
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では、考察します!
【1位】平知盛について
平家物語の知盛、めちゃくちゃカッコイイんですよね。
■頼朝に攻められそうになった木曽義仲が、一転、平家へ手を組もうと言ってきたとき、
宗盛は喜んだが、
知盛「平家の世が末になったといっても、義仲の要請で都に戻るなど以ての外!こっちには天皇がいるのだから、兜を脱いで降伏して来い!」(ズバッ)
■ 重衡が生捕られ人質となり、三種の神器との交換を要求されたとき、
母親の時子から 「重衡の命を助ける為、どうか神器を返上してください」と哀願され、
宗盛「お気持ちはわかりますが、重衡一人の為に、神器を手放すなどど・・・」
知盛「神器を渡したところで、どのみち重衡は返して貰えませんよ」(ズバッ)
■壇ノ浦の戦いで、 家人の阿波重能の裏切りを見抜いた知盛は、斬りましょうと宗盛に言うが・・・
宗盛「あれほど当家に仕えて来た者を、証拠もなく斬ったりできるか」
知盛は、太刀の柄を砕けるばかりに握って、宗盛を睨んだが、どうすることもできなかった。
結局、知盛の危惧した通り、重能は合戦の最中に平家を裏切り、平家の作戦を源氏方にバラしてしまう。重能の裏切りは平家にとって致命的となった。
■そして有名な、壇ノ浦での最期のセリフ。
知盛「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」
・・・ カッコ良すぎです。
ところで知盛について、『平家物語』の中で彼が参戦したことになっている戦いのうち、実は実際には参戦していなかったと思われるものがいくつかあります。
さて今回は、『平家物語』が創ったキャラ造形 のせいで、得した人(損した人)は誰なのか。
ランキング形式で考察してみたいと思います。
『平家物語』は、あまりにもよく親しまれた文学作品なので、我々が抱く平家の人々のイメージは、かなり平家物語のキャラ描写の影響を受けていると言えます。
一方、『平家物語』は、キャラに一貫性を持たせるために、史実とは異なる改編を加えていることもよく知られています。 (ここでいう平家物語とは、覚一本を指します。諸本については後述。)
※ランキングはえこぶんこの主観です。ご了承ください
平家物語のキャラで得した人-トップ3!
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【1位】平知盛について
■頼朝に攻められそうになった木曽義仲が、一転、平家へ手を組もうと言ってきたとき、
宗盛は喜んだが、
知盛「平家の世が末になったといっても、義仲の要請で都に戻るなど以ての外!こっちには天皇がいるのだから、兜を脱いで降伏して来い!」(ズバッ)
■ 重衡が生捕られ人質となり、三種の神器との交換を要求されたとき、
母親の時子から 「重衡の命を助ける為、どうか神器を返上してください」と哀願され、
宗盛「お気持ちはわかりますが、重衡一人の為に、神器を手放すなどど・・・」
知盛「神器を渡したところで、どのみち重衡は返して貰えませんよ」(ズバッ)
■壇ノ浦の戦いで、 家人の阿波重能の裏切りを見抜いた知盛は、斬りましょうと宗盛に言うが・・・
宗盛「あれほど当家に仕えて来た者を、証拠もなく斬ったりできるか」
知盛は、太刀の柄を砕けるばかりに握って、宗盛を睨んだが、どうすることもできなかった。
結局、知盛の危惧した通り、重能は合戦の最中に平家を裏切り、平家の作戦を源氏方にバラしてしまう。重能の裏切りは平家にとって致命的となった。
■そして有名な、壇ノ浦での最期のセリフ。
知盛「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」
・・・ カッコ良すぎです。
ところで知盛について、『平家物語』の中で彼が参戦したことになっている戦いのうち、実は実際には参戦していなかったと思われるものがいくつかあります。
(以仁王の乱・墨俣川の戦い等、重衡や維盛の手柄が、知盛の手柄にすり替わっている例もあるのです)
知盛を英雄として描こうという作者の意図的な創作が指摘されているのです。
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【2位】平重盛 について
重盛もめちゃくちゃカッコよく描かれています。実際、重盛は、清盛と後白河院の双方から信頼される有能な人物で、温厚な性格だったようですが、それだけではなかったという次の話はあまりに有名。
いわゆる殿下乗合事件です。
嘉応二年、重盛の次男・資盛が、摂政藤原基房への非礼を咎められ、従者に暴行を受ける事件が発生しました。 この三ヶ月後に平家は報復に出て、基房の行列を襲い恥辱を与えます。
実際には、基房への報復を命じたのは重盛だったようですが(『玉葉』『愚管抄』)、『平家物語』では、これをまるごと清盛の所業にすり替えており、「平家の悪行の始め」とまで言い切っています。
余談ですがこの殿下乗合事件の真相、’12年大河ドラマでは、「実際には清盛が黒幕だが、表向きは重盛がやったことにされた」という風に描かれていたような・・・成る程、折衷案ですね。うまい。
この事件を除いては、重盛の人柄は、同時代人から概ね高い評価を得ているので、平家物語の聖人キャラも、全くの創作でもないのでしょう。
【3位】 平重衡について
この人は、どこでも全く悪く言われていないのではないか・・・。
右京大夫集でも、その明朗闊達な性格を褒められていますが、平家物語でも、文句無しの好青年。
でもこの人、南都焼討という相当に悪評高い戦いの総大将なんですね。
でも、平家物語では、仏罰が下るのは重衡ではなく清盛なんです。重衡自身が悪く描かれることはありません。
むしろ、仏敵の罪を従容と受け入れ、捕虜となっても毅然とした態度を貫いた重衡を、好意的に描いています。
ひとつも悪く描かれないのは、実際の重衡の愛すべき人柄によるのかもしれませんね。
ところで重衡は、「武勇に堪ふるの器量」(『玉葉』)と評され、合戦では連戦連勝の武将でもあったのですが、『平家物語』では、どちらかというと優美な貴公子の面を強調しています。
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その他、良く描かれている人
■平教経 たいらののりつね
美男貴族が多い平家において、異彩を放つマッチョマン。
壇ノ浦の戦いで、もはやこれまでとなったとき。
太刀を投げ捨てて髪を振り乱し、
「ほら、生捕りにしたけりゃかかって来いよ。頼朝に文句の一つでも言ってやっからさぁ」(超訳)
と両手を広げたが、あまりの迫力に気圧されて、誰も近づけなかったという。
■平経正 たいらのつねまさ
琵琶の名手。経正の琵琶には、竜神さえも舞い降りる。
■平敦盛 たいらのあつもり
笛の名手。熊谷次郎直実に討たれた美少年。
■平忠度 たいらのただのり
「ゆきくれて~」の和歌の人。藤原俊成との物語が有名。
こう見ると、「おごれる者は久しからず」と言いながら、作中で驕っているとされているのは清盛くらいで、 概ねその息子や甥たちは、好意的に描かれていますね。
続きましては、平家物語によって、よろしくないイメージがついてしまった人。
弁護します!
【1位】平宗盛について
平家物語は宗盛を、とことん情けない怯懦なキャラに描きます。
聖人の兄・重盛と、有能な弟・知盛の引き立て役。さらに、捕虜となって後の卑屈な姿は、弟・重衡とも比較されて惨めです。
(『源平盛衰記』には、もっとえげつない宗盛サゲ記事があって悪意を感じるレベル。)
ひどすぎない・・・?
【3位】平維盛について
維盛は、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い、という平家の命運をかけた二大決戦で、大将軍として惨敗してるんですよね。 維盛が軟弱、戦下手と評価される所以です。
でもこれ、他の人だったら、勝てたというの・・・?
治承四年(1180)の富士川の戦いでは、平家は数万の大軍を率いながら、水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げた・・・なんて揶揄されます。維盛最大の汚名です。
実際のところは、アテにしていた駿河・遠江の平家勢力が既に甲斐源氏によって壊滅しており、さらに離反も相次いで、富士川に布陣したときには、平家軍は数万どころか千騎ほどしかいなかったそうです。 (『玉葉』『山槐記』)
現状での追討は不可能と見て、平家軍は自主的に撤退した、というのが事実のようです。
それでも維盛自身には、撤退する意思はなかったけれど、侍大将伊藤忠清に諭され、やむなく退却したとのこと。(『玉葉』)
維盛は、この翌年の墨俣川の戦いでは源行家軍に圧勝し、戦果を上げています。(『吉記』)
「平家の嫡々でありながら、不遇を受け、一人那智沖での入水を選ばざるをえなかった悲劇の貴公子・・・」
そういう、儚く脆い維盛像もある意味魅力的ではありますが、維盛ご本人は、ちょっと待ってと言いたいかもしれませんね。
■平資盛 たいらのすけもり
便宜上作者という言葉を使っていますが、平家物語の作者とは、特定の一人の人物を指すわけではありません。
平家物語には、内容を異にする夥しい数の異本があり、我々が教科書で読んでいる『平家物語』(覚一本)は、その中の一つに過ぎないのです。
鎌倉時代の早い段階で平家物語の原形となった作品があったことは予想できますが、それから何十年何百年の間に、増補(あるいは削除)・改編が繰り返され、現在伝わる形になるまでに、作品に積極的に関わった多くの無名の作者がいることになります。
■読み本系
平家物語のもっとも古い形態を留めていると言われるのが、「延慶本」です。文量が多く、様々な記録や逸話を雑纂的に纏めた印象です。ストーリーの整合性には欠きますが、その分、後の平家物語で削除・改編される以前の興味深い記述を見ることができます。
他に読み本系には、「長門本」「四部合戦状本」「南都本」『源平盛衰記』『源平闘諍録』などがあります。語り本に比べ、源氏側の記事を多く含むのが特徴です。
■語り本系
我々が学校の教科書で読んでいるのが「覚一本」。
南北朝時代、当時琵琶法師のトップであった明石覚一が、弟子のたちの為のテキストとしてまとめたものです。
諸本中もっとも文芸的に優れていると言われ、ストーリーに矛盾がなく、キャラが立ち、物語はドラマチックに、より感動的に描かれます。(そのため我々現代人が読んでもわかりやすいです)
ストーリー性を優先させた為に、史実と乖離した部分があることは否めませんが、巧みな物語構成や、魅力的なキャラの造形など、現代人が読んでも共感できる要素が多くあります。
語り本系はさらに、「灌頂巻」を末尾に置く一方系(覚一本はこっち)、維盛の子・六代の最期を結びとする八坂系、に分類されます。
知盛を英雄として描こうという作者の意図的な創作が指摘されているのです。
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【2位】平重盛 について
いわゆる殿下乗合事件です。
嘉応二年、重盛の次男・資盛が、摂政藤原基房への非礼を咎められ、従者に暴行を受ける事件が発生しました。 この三ヶ月後に平家は報復に出て、基房の行列を襲い恥辱を与えます。
実際には、基房への報復を命じたのは重盛だったようですが(『玉葉』『愚管抄』)、『平家物語』では、これをまるごと清盛の所業にすり替えており、「平家の悪行の始め」とまで言い切っています。
余談ですがこの殿下乗合事件の真相、’12年大河ドラマでは、「実際には清盛が黒幕だが、表向きは重盛がやったことにされた」という風に描かれていたような・・・成る程、折衷案ですね。うまい。
この事件を除いては、重盛の人柄は、同時代人から概ね高い評価を得ているので、平家物語の聖人キャラも、全くの創作でもないのでしょう。
【3位】 平重衡について
この人は、どこでも全く悪く言われていないのではないか・・・。
右京大夫集でも、その明朗闊達な性格を褒められていますが、平家物語でも、文句無しの好青年。
でもこの人、南都焼討という相当に悪評高い戦いの総大将なんですね。
でも、平家物語では、仏罰が下るのは重衡ではなく清盛なんです。重衡自身が悪く描かれることはありません。
むしろ、仏敵の罪を従容と受け入れ、捕虜となっても毅然とした態度を貫いた重衡を、好意的に描いています。
ひとつも悪く描かれないのは、実際の重衡の愛すべき人柄によるのかもしれませんね。
ところで重衡は、「武勇に堪ふるの器量」(『玉葉』)と評され、合戦では連戦連勝の武将でもあったのですが、『平家物語』では、どちらかというと優美な貴公子の面を強調しています。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その他、良く描かれている人
■平教経 たいらののりつね
壇ノ浦の戦いで、もはやこれまでとなったとき。
太刀を投げ捨てて髪を振り乱し、
「ほら、生捕りにしたけりゃかかって来いよ。頼朝に文句の一つでも言ってやっからさぁ」(超訳)
と両手を広げたが、あまりの迫力に気圧されて、誰も近づけなかったという。
■平経正 たいらのつねまさ
琵琶の名手。経正の琵琶には、竜神さえも舞い降りる。
■平敦盛 たいらのあつもり
笛の名手。熊谷次郎直実に討たれた美少年。
■平忠度 たいらのただのり
「ゆきくれて~」の和歌の人。藤原俊成との物語が有名。
平家物語のキャラで、損した人-ワースト3!
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弁護します!
【1位】平宗盛について
聖人の兄・重盛と、有能な弟・知盛の引き立て役。さらに、捕虜となって後の卑屈な姿は、弟・重衡とも比較されて惨めです。
(『源平盛衰記』には、もっとえげつない宗盛サゲ記事があって悪意を感じるレベル。)
ひどすぎない・・・?
(T-T)
軍記物である『平家物語』において、出陣しない宗盛(総帥だからね)が評価されないのは、やむを得ないとしても、政治家として無能かと言われれば、また違った見方もあるでしょう。
宗盛は戦場にこそ出向きませんが、平家の総帥として奮闘しています。
富士川の敗戦を受け各地で反乱が起こる中、都を福原から戻すよう清盛に進言したのは、宗盛でした。
治承五年(1181)には、宗盛は、五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヶ国の惣官に就任。合法的に兵を動員できる実質の国家の軍事トップに立ちます。
軍記物である『平家物語』において、出陣しない宗盛(総帥だからね)が評価されないのは、やむを得ないとしても、政治家として無能かと言われれば、また違った見方もあるでしょう。
宗盛は戦場にこそ出向きませんが、平家の総帥として奮闘しています。
富士川の敗戦を受け各地で反乱が起こる中、都を福原から戻すよう清盛に進言したのは、宗盛でした。
治承五年(1181)には、宗盛は、五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヶ国の惣官に就任。合法的に兵を動員できる実質の国家の軍事トップに立ちます。
清盛の没後は、惣官として追討使の派遣を指揮しつつ、後白河院や他の公卿との調整に奔走しました。
宗盛にとって不都合だったのは、高倉院の崩御後復帰した後白河院が、源氏の追討には拘らなかったことです。
後白河院への恭順姿勢を公に表明した宗盛でしたが、院御所評定が示した和平方針には同意せず、追討使の派遣を継続。
平家の軍事権門としての立場を守らなければならない宗盛は、この時点で源平相並んで朝廷に仕えるという和平案は受け入れられるものではなかったからです。
こうして宗盛は、必ずしも正当性を認められていないまま追討を遂行するという難しい立場に立たされることになるのです。
寿永二年(1183)、都落ちの際には、西国に同行させる予定だった後白河院と摂政・藤原基通に土壇場で逃げられるという失策を犯し、それまで官軍だった平家は一転、賊軍として追われる立場に成り下がってしまいました。
都落ち後の宗盛は、必ずしも徹底交戦するつもりだったわけではありません。
一ノ谷の戦いでは、平家の名だたる公達が多く討たれてしまいますが、これは、和平交渉の最中だったので、源氏は攻めてこないと平家側が信じ込んでいたからだという説があります。
信じる方が甘い、と言われればそれまでですが・・・。
合戦場ではないところで、総帥として奮闘し続けた宗盛でしたが、清盛ほどには、権謀術数には長けていなかったのかもしれません。
【2位】平清盛について
平家物語では悪人扱いですが、作中で没後にその功績も評価しています。
清盛の功績とは・・・
日宋貿易に大きな可能性を見ていた清盛は、宋船を都の近くまで呼び込む為、瀬戸内海の港・大輪田泊(おおわだのとまり)を修築しました。(現在の神戸港)
また、後白河院を宗の商人と面会させるなど、当時の常識では考えられないことをしています。
なお、国産貨幣がほとんど流通していなかった時代に、宋銭を大量に輸入し、日本における貨幣経済の基盤をつくったのは清盛です。
港に近い福原へ遷都したのも、既存の体制に捉われない新しい国際貿易都市を目指した為だとも言われています。
発想は革新的!でも、新しすぎて貴族達には理解されなかった…。それと、ちょっとやり方が強引過ぎましたね。
一ノ谷の戦いでは、平家の名だたる公達が多く討たれてしまいますが、これは、和平交渉の最中だったので、源氏は攻めてこないと平家側が信じ込んでいたからだという説があります。
信じる方が甘い、と言われればそれまでですが・・・。
合戦場ではないところで、総帥として奮闘し続けた宗盛でしたが、清盛ほどには、権謀術数には長けていなかったのかもしれません。
【2位】平清盛について
清盛の功績とは・・・
日宋貿易に大きな可能性を見ていた清盛は、宋船を都の近くまで呼び込む為、瀬戸内海の港・大輪田泊(おおわだのとまり)を修築しました。(現在の神戸港)
また、後白河院を宗の商人と面会させるなど、当時の常識では考えられないことをしています。
なお、国産貨幣がほとんど流通していなかった時代に、宋銭を大量に輸入し、日本における貨幣経済の基盤をつくったのは清盛です。
港に近い福原へ遷都したのも、既存の体制に捉われない新しい国際貿易都市を目指した為だとも言われています。
発想は革新的!でも、新しすぎて貴族達には理解されなかった…。それと、ちょっとやり方が強引過ぎましたね。
なお、『平家物語』が清盛のことを「悪」と呼ぶのは、あくまでも王法・仏法を重視する思想を前提とした悪であって、清盛自身の人柄が悪人であるとまで言っているわけではありません。
人柱を廃止し、殺生を否定する場面(巻六「築島」)など、現実的で情に厚い人柄も描かれているのです。
【3位】平維盛について
でもこれ、他の人だったら、勝てたというの・・・?
治承四年(1180)の富士川の戦いでは、平家は数万の大軍を率いながら、水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げた・・・なんて揶揄されます。維盛最大の汚名です。
実際のところは、アテにしていた駿河・遠江の平家勢力が既に甲斐源氏によって壊滅しており、さらに離反も相次いで、富士川に布陣したときには、平家軍は数万どころか千騎ほどしかいなかったそうです。 (『玉葉』『山槐記』)
現状での追討は不可能と見て、平家軍は自主的に撤退した、というのが事実のようです。
それでも維盛自身には、撤退する意思はなかったけれど、侍大将伊藤忠清に諭され、やむなく退却したとのこと。(『玉葉』)
維盛は、この翌年の墨俣川の戦いでは源行家軍に圧勝し、戦果を上げています。(『吉記』)
ところが、覚一本『平家物語』に維盛の名はなく、代わりに知盛が大将軍として登場します。
(な、なぜ…)
平家物語の古態といわれる延慶本『平家物語』、またその流れを汲む「読み本系」の平家物語には維盛の名があるので、「語り本系」では故意に、墨俣川の戦いにおける維盛の戦果が削除されているのですね。
これはおそらく、戦に弱いという維盛のキャラを立てる為。
「平家の嫡々でありながら、不遇を受け、一人那智沖での入水を選ばざるをえなかった悲劇の貴公子・・・」
そういう、儚く脆い維盛像もある意味魅力的ではありますが、維盛ご本人は、ちょっと待ってと言いたいかもしれませんね。
ランキング外・特別枠
『右京大夫集』では主役ですが、実は『平家物語』ではキャラが立つほどの描写はありません。ですが、屋島にて、兄・維盛の訃報を聞いたとき、資盛の心情が語られる場面があり、ここが作中でも屈指の名場面となっています。
一人入水を選んだ兄を想い、「なぜ私達弟も連れて行ってくださらなかったのか」と涙する資盛。
このときの資盛の心細さは、彼が右京大夫に宛てた手紙にも綴られています。
通盛本人というより、妻の小宰相(美女!)のストーリーが一つの章になるほどのインパクト。小宰相は、一の谷で討たれた通盛の後を追い入水するほど、通盛を愛していました。
合戦直前に、陣に小宰相を連れてきて名残を惜しんでいる通盛を、弟・教経が厳しく咎める場面がありますが、通盛の妻への想いは、批判対象というよりは美しい愛として、作者は描こうとしたように思われます。
合戦直前に、陣に小宰相を連れてきて名残を惜しんでいる通盛を、弟・教経が厳しく咎める場面がありますが、通盛の妻への想いは、批判対象というよりは美しい愛として、作者は描こうとしたように思われます。
弟の教経が豪快なのに対して、通盛は優美で優しいイメージで描かれていますが、
実際の通盛は、
治承寿永の内乱の間、ほとんど全部といっていいほど多くの戦いに出陣しており、門脇家の長男としてめちゃくちゃ頑張っていた人です。
平家物語作者と諸本について
平家物語には、内容を異にする夥しい数の異本があり、我々が教科書で読んでいる『平家物語』(覚一本)は、その中の一つに過ぎないのです。
鎌倉時代の早い段階で平家物語の原形となった作品があったことは予想できますが、それから何十年何百年の間に、増補(あるいは削除)・改編が繰り返され、現在伝わる形になるまでに、作品に積極的に関わった多くの無名の作者がいることになります。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
平家物語諸本をざっくりと。■読み本系
平家物語のもっとも古い形態を留めていると言われるのが、「延慶本」です。文量が多く、様々な記録や逸話を雑纂的に纏めた印象です。ストーリーの整合性には欠きますが、その分、後の平家物語で削除・改編される以前の興味深い記述を見ることができます。
他に読み本系には、「長門本」「四部合戦状本」「南都本」『源平盛衰記』『源平闘諍録』などがあります。語り本に比べ、源氏側の記事を多く含むのが特徴です。
■語り本系
我々が学校の教科書で読んでいるのが「覚一本」。
南北朝時代、当時琵琶法師のトップであった明石覚一が、弟子のたちの為のテキストとしてまとめたものです。
諸本中もっとも文芸的に優れていると言われ、ストーリーに矛盾がなく、キャラが立ち、物語はドラマチックに、より感動的に描かれます。(そのため我々現代人が読んでもわかりやすいです)
ストーリー性を優先させた為に、史実と乖離した部分があることは否めませんが、巧みな物語構成や、魅力的なキャラの造形など、現代人が読んでも共感できる要素が多くあります。
語り本系はさらに、「灌頂巻」を末尾に置く一方系(覚一本はこっち)、維盛の子・六代の最期を結びとする八坂系、に分類されます。